僕の住んでいる岐阜県は人口210万人、井ノ口市42万人、愛知県と隣接していることから、岐阜と愛知の関わりは強い。岐阜から愛知に通勤、通学する学生、会社員が多くみられる。父の仕事も名古屋の土木工事が全体の5割を占めている。岐阜県民の人柄は、調和を重んじ保守的。あまりホンネを言わない人たちだ。少し考えに偏りがあると思われるが、僕はそう感じている。岐阜県は濃尾平野を中心として山に囲まれた地域だ。産業としてはアパレル(衣服)産業が盛んだ。僕の住んでいる井ノ口市では親戚の誰かはアパレル産業に関わっている。縫製や仕立て、流通など、個人で工業用ミシンを置いて仕事をする人も多い。
伝統産業では、美濃和紙、和紙を使った、和傘、岐阜提灯なども有名で、関市では歴史的に日本刀を作っていたなごりから、刃物の製造が行われている。清流長良川ではアユ漁、鵜飼(鵜という鳥を使いアユなどの川魚を捕らえる手法)などが行われている。解禁日になるとアユ釣りを心待ちにしていた釣り人たちが長い竿をたらして釣りを楽しむ姿がある。
そして、歴史的には信長ゆかりの地として知られている。県名である『岐阜』と名づけたのも信長なのだ。信長は1555年、清洲城(現在の愛知県清洲)を奪い尾張を統一し、1560年、桶狭間の闘いで今川義元を倒し尾張を手中に収めた。1567年には、美濃(現在の岐阜)の斎藤道三を破り、岐阜城を奪った。そこで信長は天下統一の夢を始めて叫んだのだ。岐阜城は井ノ口市のシンボルとなっている。金華山という井ノ口市で一番高い山の上に立てられた珍しい城である。
岐阜県で起こった歴史上、一番有名な出来事といえば『関ヶ原の戦い』(天下分け目の戦い)である。1600年、石田三成率いる西軍8万5000人と、徳川家康率いる東軍10万4000人が、岐阜の関ヶ原(滋賀県と程近い場所)で激突した。その結果、石田三成は大敗し、京都で処刑される。一方、家康は1603年、征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。ここから江戸300年、近代までの歴史へと続くのである。この事から天下分け目の戦いとして知られるようになった。
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