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斎藤芳盛
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貧乏農家のきょうだいは、朝から晩まで働いた。農業は人手がかかる。当時は機械などなく、全て手作業だった。武芸川町は、井ノ口市に隣接しているものの山間部にあるため冬は寒かった。冬の朝には、霜が降りる為、野菜を守らなければならない。まだ夜が明けぬうち、小さな手は赤く腫れた。夏には日照りが続き、井戸でくみ上げた水を天秤棒で担ぎ畑まで何度も運ぶ。地形が平坦でなく、山肌に沿って段々になっているため、小さな子供がおよそ15キロの天秤棒を担ぎ登る事は重労働であった。タイは家業を支えるため学校に行けなかったし、字の読み書きもできなかった。近所の子供が学校に通うのを見ると悲しく辛かった。しかし親が大変な思いをして働く姿を見ると、お父さん、お母さんの為に働きたいと思い、何も言わずに働いた。生きていくことに必死だったのだ。タイは優しい大好きなお母さんの膝の上に座ることが好きだった。お母さんはいつも笑顔でいてくれた。戦争という暗く辛い時であっても母はいつも太陽だった。

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タイは、三男五女の三女として岐阜県武芸川町の貧乏農家に育ち、太平洋戦争の最中で幼少期を過ごす。長兄は出征し、陸軍でハヤブサという戦闘機に乗り中国で戦った。タイは幼いながら、赤紙が家に届いた時のことを鮮明に覚えている。お国の為に戦うことが最高の名誉とされていた時代である。「万歳!!万歳!!」と声を上げるものの家族は悲しみをぐっと胸の中にしまい込んだのだろう。長兄は優しく、面倒見よく、そしてよく働いた。竹細工が得意で、ナタ一本できょうだいに手作りのおもちゃを器用に作ってくれた優しい兄であった。一時帰国が許された際、長兄は遺書を残していた。「戦艦一隻ニ爆弾投下スルトキ100ノ人アレバ100ノ家族ノ涙ガ見エル。シカシテオ国ノ為ニ命ヲ捨ツル」とあった。そして長兄は戻らなかった。

昭和20年7月9日、23:34~0:20。130機のB29が井ノ口市に飛び、市内は真っ赤に燃えた。一時間足らずの間に跡形もなく焼き尽くしたのだ。タイはオレンジと赤の交じり合った西の空を見ていた。

人が人でなくなる。心は隅に追いやられ、戦争で苦しむのはいつも無関係の人ばかり。死を受け止める事も出来ず、国を恨むことは許されず。見えるものと見えないもの、すべてを失うこと、それが戦争である。



僕の家、三軒長屋の脇を通る路地を抜けたところに、上野さんというお宅があった。長屋に移り住んでから、いつもお世話になり、家族ぐるみのお付き合いをさせてもらっていた。僕の父は遠い現場になると帰りは遅くなることがあり、母もスーパーのパートが長引くことがあった。そのため上野さんのおばちゃんは、留守番している僕と、妹の奈緒を心配してよく家を覗いてくれた。そして必ず温かい声をかけてくれた。『洋ちゃん、奈緒ちゃん、もうすぐお父さん、お母さん帰ってくるでね。』といい、お菓子などのおやつを置いていってくれた。我が家では、食事は一家一緒にというルールがあるが、たまに両親が仕事で遅くなりそれができないことがあった。そんな時は、上野さんが『家で食べればいいがねぇ』と上野さんの家で妹と一緒に夕食をご馳走になることがあった。本当に優しい人たちだった。上野さんのおじさんは大の釣り好きで、休みになると長良川に出かける。友(とも)釣りといわれる釣りが特に好きだった。友釣りというのは、一匹の鮎を釣り針にかけて、釣り糸を垂らす。すると、川で泳ぐ鮎が別の鮎から縄張りを守るため釣り糸めがけて攻撃してくる。そうするうちに、鮎の付いていない釣り針に引っかかり、それを釣り上げるという方法が友釣りである。冬の時期は川釣りが出来ない為、冬は春の解禁日に向けての策を練り、新しい装備を整える。よくおじさんは、おばさんに怒られていた。それは、高額な釣道具を迷いなく買ってしまうからだ。タモに15万円。釣竿に30万。おじさんは言う。『やっぱり高い道具はいい!』そのくせ、タモをよく失くす。高額商品が一瞬の油断で長良川の流れに乗ってあっというまに消えていくのであった。上野のおじさんとは釣りの話ばかりしていた。僕はとくに釣が好きではなかったが、おじさんが嬉しそうに熱く語る姿を見るのがとても楽しかった。

上野さんには一人娘がいた。名前は上野知子。ともちゃんと僕は呼んでいた。僕と同級生で、頭が良く、優しく、可愛く、音楽がとても好きな子だった。ガリ吉とよばれた僕にも優しく接してくれた。でも、怒らせるととても怖い。そのことを知っていた僕は怒らせないように気をつけていた。小さい頃ともちゃんとよく遊んだものだ。何をして遊んだかはあまり覚えていない。というよりも、小さい頃は何かがなくても、ただ走ったり駆けたりするだけで楽しかった。ともちゃんにはよく怒られた。『なんでそんなことするの!!洋ちゃんもっとしっかりしてよねぇ!!そんなところに行ったらあかんよ!!』常にともちゃんからのダメだしが発生していたのだ。でも、ともちゃんはいつも僕の事を気にかけてくれて、とっても優しい女の子だった。小学校に入ると、何故かともちゃんと同じクラスになることはなかった。だから、小学生になってからは一緒に遊ぶこともなくなっていった。

あれは、小学校5年生の秋だった。突然、ともちゃんが転校することになった。それまで、そんなそぶりや話もともちゃんからも、上野のおばちゃん、おじさんからも聞いていなかった。だから、僕はともちゃんのお別れを見送ることも、話すこともできず、どこに行くかさえも理由も分からなかった。とても寂しく、ともちゃんが転校してからは力が入らず、しばらくの間僕は抜け殻のようになっていた。

外山君、ともちゃん・・・。僕の大切な人は離れていった。それが何とも悲しく、寂しい。


ガリ吉と呼ばれて・・・。



後にともちゃんと再会することになるが、その話はまたの機会に・・・。


ガリ吉と呼ばれた僕にも素敵な出会いがあった。

あれは、小学1年生のことだった。同級生に外山裕一君という子がいた。彼はキンジストロフィという難病に侵され、そして戦っていた。どんなことがあっても、いつも笑顔で本当に強い子だ。キンジストロフィという病気は、筋力が時が経つほどに衰える不治の病だ。当時の彼は走ることはできず、歩くのも遅かった。しかし、彼から弱音を聞いたことは一度もない。クラスのみんなからはからかわれ、先生も彼に対して差別的な言葉を浴びせ、冷たかった。しかし、僕と彼はとても仲が良く、いつも一緒だった。

1年生の1学期の始まり、学級委員を決めることになった。立候補者がいなかった為、投票で学級委員を決めることになった。先生が、大きな壺を持ち出し言った。

「今から投票用紙を配るから、この壺の中へ廊下側の席から投票用紙を書いて入れるように!」

クラス37人が順に投票を済ませていった。

「開票します!」

僕は、静かに見ていた。先生が開票名を黒板に書き、数の分だけ正の字を引いていった。開票が後半に差し掛かった時の事だった。先生が投票用紙に書かれたある名前を見て首をかしげながら読み上げた。

「きさらぎ ようきち」


しばらく開票がストップした。無記名投票のはずなのに、先生はこんなことをクラスの生徒に尋ねた。

「きさらぎと書いたのは誰?」

すると、迷わず手を上げた子がいた。外山裕一君だった。先生は外山君に勢いよく言葉を浴びせた。

「如月にできるはずないやろ!!!」

それ以上、先生は何も言えなかった。教育者として言ってはならない事を口から発したと、微(かす)かにも良心に感じたのだろう。その後静まり、開票名だけが読み上げられた。

僕はその事があり、学級委員選挙に小学1年から6年まで、毎回立候補することとなる。その結果はすべて落選。しかし、6年間、立候補し続けられたのは、僕が外山君を誇りに思う気持ちからだった。僕と外山君はいつも一緒で相性もピッタリだった。クラスの記念撮影の写真にはいつも僕の隣に外山君がいる。外山君とは2年間同じクラスだったが、3年生の時にクラス変えがあり別のクラスになった。その後、外山君は成長する程に筋力が落ちていき、普通学級での活動が困難という理由で3年生の途中から養護学校へ転校することになった。




それから10年後。

彼と僕は再会を果たす。外山君は歩行することもできなくなっており、自宅療養していた。しかし、彼は負けていなかった。絵を習い、その3年後には個展を開くまでになっていた。強く使命に生きる彼の姿から、僕は生きる力をもらっている。そして彼のことを僕は永遠に尊敬し続ける。



すると母は鋭い眼光で僕を見つめた。

「洋ちゃんいじめられとるんやないの?」




「・・・」




「僕、もう生きていたくないよ・・・」




バチン!!!

手のひら大の重い塊が、僕の頬めがけて飛んできた。


母は僕に目に涙を浮かべ言った。

「洋ちゃんは何も悪いことしてないやないの!!いじめる子っていうのはね、自分のことを大切に思えない可愛そうな子なの。そうゆう子の為にも、洋ちゃん自身の為にも負けたらあかん!!絶対に・・・。」

母の心の叫びは、僕の体に電撃を走らせた。母は常に正しいことを言う。それは、とても厳しい言葉だ。しかし、正直で嘘偽りない心の言葉なのだ。

僕は、行動を起こした。人は、言葉で伝え切れないものがある。口下手な僕は、手紙を書いてみようと思った。僕は切手の収集をしていた。珍しい切手や、きれいな切手、かっこいい切手をたくさん持っていた。今まで、僕をいじめていた子に対して、僕の切手コレクションでその子が気に入りそうな切手を選んで、封筒に貼り、決してきれいな字ではないが、何度も書き直し心を込めて書いた。内容はたわいもないことだった。

「昼休み、ドッチボールの陣地取りで全力で走ってありがとう!」

「今日の給食で揚げパンでたね。おいしかったね!」

「社会の時間、○○君が発言してみんな盛り上がったね!」


手紙を書き初めて、最初のうちは反応もなかったし、何も変わらなかった。でも、僕の心は変わっていくのが分かった。いじめられて、凄く嫌いだった子が、「あんないい所があるのか!」っと気づける自分になっていたのだ。それから、手紙を書くことが楽しくなり、少しずつ周りが変わっていく事を実感した。いじめていた子から、遊ぼうと誘われたり、授業の時わからない所があり苦戦していると、「ここ分かるか?」と声を掛けてくれ教えてくれたりした。

一つ分かったことがある。「自分が変われば周りも変わる」ということだ。小学校を卒業するころには、僕をいじめる子はいなくなっていた。その時、あの日に母が言った言葉は正しかったと強く思った。その後も僕はガリ吉と呼ばれた。しかし、ガリ吉と呼ばれる意味が変わっていたことは言うまでもない。







小学生の頃、僕は一人でいることを無意識のうちに望んでいたのかもしれない。いつも一人だった気がする。ガリ吉と呼ばれ、イジメられ、一人の世界にいた。同級生とはあまり関わりを持たず、自分と関わる人は不幸になるとさえ思っていた。だから僕は、学校での関わりに悲観的だったといえる。そのかわり、大人の人とよく話した。近所のおじさんやおばさん、近くにある消防署の消防士さんと話すことが好きだった。

とにかく、学校での生活は辛かったし、苦しくもあった。毎日、毎日イジメられ、ひらすらに孤独を感じる日々が続く。その中でも、学校での勉強が特に嫌だった。先生も自分のことを理解してくれないと思い込み、信じられずにいたことから勉強する気持ちも冷めていったのかもしれない。小学生時代は「自分はダメなんだ!」「何も取り柄がないんだ!」としか考えられなかった。まわりの同級生は僕のことを変わっていると思っていたようだ。その当時のこと、あれは小学校3年生くらいだったと思う。5時間目の授業が終わり、帰ろうと下駄箱の方へと歩く。下駄箱には出席番号順に番号がついており、僕は8番だった。8番を見ると靴がない!それから2時間程探し続け、結局みつからない。しかたなく上履きで帰ることにした。帰りの道中、ムナシサが胸中に広がる・・・。家に帰るのが嫌で、いつもより遠回りをしてみる。しかし、いつしか家の前に着いてしまった。玄関に気持ちを抑えながら入る。すると母が僕を迎えた。

「洋ちゃん、今日は遅かったのね」

いつもの言葉を僕は母に返した。

「うん。友達と遊んでてね・・・。」

居間に入ろうとすると母が言った。

「ちょっと待ちなさい!」

「靴はどうしたの?」

僕はいつも通りこう答えた。

「友達と遊んでて靴が汚れちゃったから学校に置いてきた」


小学生時代の6年間は辛いものだった。ガリ吉と呼ばれ、そしてイジメにあっていた、。僕の身の回りでは、よく物が無くなった。通学帽や傘、消しゴムや靴にいたるまで・・・。イジメとは必ず群れを成す。弱い心は、また弱い心を求めるものである。

ある日のこと、トイレ掃除をしていると何か冷たくなった。「手が滑った!」と、同級生がホースから出る水を僕に浴びせたのだ。また違う同級生がホースを持ち「手が滑った!」と言う。一週間で掃除の場所が変わるのだが、トイレ掃除の一週間は苦しかった。なぜなら、一週間はずっとずぶ濡れの毎日が続くからである。学校の先生も不思議に濡れた服を着ている生徒を見て何も気づかなかった。濡れたまま家にかえると母が声をかける。

「洋ちゃんずぶ濡れでどうしたの?」

すると僕は決まってこう答える。

「友達と遊んでて濡れちゃった・・・。」

それで一応は母の納得は得られるものの、母の顔はいつも困惑していた。学校生活で楽しいと思えることは一つも無かった。学校行事や、クラスで何かをする時には必ず仲間はずれにされていた。クラスの女子からは「きもちわる!」と僕が視界にはいるたびに言われるのである。そして、学校という世界の中でも、一番嫌いな恒例行事があった。それは年に二回の席替えである。僕が通っていた小学校では、年に二回の席替えと班替えが行われていた。班とは、5人程のグループである。クラスで何かを発表したり、スポーツを班対抗で行う場合のグループとして決められていた。何故、この班替え、席替えが嫌だったか。それは、僕と席が隣になるのは女子と決まっていて、隣になった女子は半年間、僕と口を聞かない。隣になった女子の友達はその子に対して哀れみの言葉をかける。「半年もガリ吉と一緒なんてかわいそう・・・。」すると、僕の隣になった女子は泣くのである。班替えも同様である。同じ班になった5人のメンバーは、貧乏クジを引いたように落胆をあらわにする。この半年間の繰り返しが僕の小学生時代だった。でも、それが当たり前のようになっていた。



母と、新・井ノ口百貨店をうろついたが、なかなか誕生日プレゼントが見つからなかった。5階を中心にプレゼントを探したが、僕の興味を引く物はなかった。数時間デパート中を歩き続け、疲れてしまった。そこで母と僕は、屋上で休憩することにした。屋上広場の白いベンチに座っていると、母はグレープと書いてある缶ジュースを買ってきてくれた。果汁入りだと思い、激しく腕を回して振った。そして、缶のタブを引き上げると『ぷしゅ~っ!!』という音と共に、中のジュースがふき出した。缶をよーく見ると下に炭酸飲料の文字・・・。僕と母の服はグレープ色に染まってしまった。母が鞄からハンカチを取り出し、ズボン中心に濡れてしまった僕の服を拭いてくれた。そして母はため息をついてこう言った。

「今日は踏んだりけったりやね!プレゼント見つかりそうもないし、かえろっか?」

僕もその意見に賛成だった。デパート中を歩きつくして見つからなかったのだ。そう思わせた決定打は、グレープという名の誰も知ることのないジュースだった。僕はこのジュースのことを一生忘れないだろう・・・。何も収穫がないまま屋上から下りた。屋上はエレベーターが無く、階段で5階まで下りる。疲れた体をおし、階段を下る・・・。5階に着き、エレベーターがある方へ向かった。すると、僕の目にあるものが飛び込んできた。エレベーター乗り場の隅を見ると小さな店があった。思わず僕は母に言った。

「これ!これだよ!!」

それは、切手とコインの店だった。その中でも、店のガラスケースに飾られた切手を見て、体に電撃が走った!僕は一瞬にして切手に魅了されてしまったのだ!!日本の切手でも様々な種類がある。記念切手から、地方の特産、名所、花などが絵柄になったもの、いや!海外の切手もあるぞ!!目立たない店の狭いガラスケースの中には世界の全てが納まっていた。気持ちを抑え切れず、ガラスケースを指差し母に言った。

「誕生日プレゼントこれがいい!!」

それを聞くと母は、笑顔を浮かべほっとした様子だった。そして僕の誕生日プレゼントは、大阪万博の会場でしか売られてなかったプレミヤ切手と、東海道新幹線・開通記念切手、切手を収める為の切手ブックと、流通している切手が載っている本を買った。この誕生日プレゼントから、僕の切手収集の道が始まったのだった。

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