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斎藤芳盛
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僕の父はこだわりを持っている。朝は早くに出る事が多いので朝食は家族別々になることが多いが、夜食は家族で必ず食べるという事を今まで守ってきた。会社の従業員やお得意先の社長などと、週に5日は飲みに行くのだが、必ず家に戻ってきて家族と食事をすることは怠らない。井ノ口市の歓楽街、柳ヶ瀬へ繰り出し、夜遅くまで飲んでいるにもかかわらず、朝、寝坊したことは一度もない。父の尊敬するところでもある。

父の趣味は酒のコレクションだ。洋酒や焼酎、日本酒など、高価な酒が我が家に900以上ある。しかし、開封はされていない。あくまでコレクションであって、飲むための物ではないらしい。会社の従業員が家に来た時など、酔った勢いでコレクションに手を付けようとすると、父は焦った表情で「ダメ、ダメ!!」と酒を取ろうとする手を制するのであった。コレクションは父が器用に作った陳列棚に収められている。洋酒、焼酎、日本酒と三つの棚に別けられており、こだわりの程が知れる。僕の切手収集も父のこんな一面が少なからず影響しているのかもしれない。

父は時々、烈火のごとく怒るときがある。一番は食事の事について。農家で育った父は、食べ物をつくる大変さや苦労を知っている。その為、食事をまずそうな食べ方をしたり、もちろんの事ながら残すような事があろうものなら父の怒りはマックスに達する。そんな時は鉄拳制裁が待っていた。父のヘビー級クラスの鉄拳が容赦なく僕の顔面を貫く!痛いという表現では納まらない。全てが砕けるという表現が適当だ。ときには、理由が分からないが殴られる時がある。父が日頃「男は強くあれ!!」と繰り返し言っていることから、僕の態度が女々しかったりするのだと推察する。

僕が高校1年の春、ある出来事が起きた。父親の殺気を感じ、鉄拳制裁の予感!予想どうり、父は拳をくりだした。ところが、父のナックルパンチがスローモーションに見え、起動がくっきりと見えたのだ。すかさず僕はパンチをよけた!おそらく、十数年パンチを受けてきた僕に何かが備わったのだろう。父は一瞬唖然とした顔をしたが、マックスだった父の怒りがパンチをよけた事により、マックスからマックスを越えるスーパーマックスへと至らしめてしまった・・・

一瞬間が開き、「この野郎ぉ~~っ!!!」という父の怒声が我が家を襲った。その後、一発受ければよかったパンチを僕は十数発も受けるはめになる。それからというもの、父のパンチを素直に受けることを心がけた。その方が懸命だと判断したからだ。しかし、十数年もただ父のハンマーパンチを受けてきたわけではない。あのパンチをまともに受ければ失神KOは必至。僕は時を経て、パンチを受ける直前に首をパンチの進行方向に振り、衝撃を逃がすという奥義を身につけていた。見た目はパンチの破壊力によって首がねじれているかのように見える為、父としてもこれ以上殴れないという制御本能が働き、一発のパンチで父の怒りは納まるのであった。

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竜次が佐伯工務店で働きはじめて8年の月日が経過した。真面目な仕事ぶりから、皆に信頼され、竜次は佐伯工務店のホープとなっていた。班を任され、後輩と現場へ向かう毎日。あの日の失敗を二度と繰り返さないと8年間貫き通してきたのだ。社長もそんな竜次を見て、地方への研修や、資格取得をサポートした。

竜次の弟2人は無事、高校を卒業した。母、タイとの誓いを果たしたのだ。22歳になった竜次だが、社長に了承を得て夜間高校への進学を決意する。弟たちが無事に高校卒業し、行きたかった高校にやっと通えるようになったのだ。仕事が終わると、疲れをおして高校に通った。しかし竜次は毎日が新鮮だった。行きたかった高校を断念し、働いてきた竜次にとって高校は夢の場所だった。

それから更に5年後には、最年少で業務部長になった。社員数は竜次が入社した当時と比べ大幅に増え、40人程になっていた。井ノ口市内でも公共の建物や工場、住宅など建設ラッシュが起こり、佐伯公務店も規模を拡張し3つの営業所を構えるまでになった。佐伯公務店に入社してから20年後、竜次は独立を決める。現在の会社、如月工務店を設立する。会社を起こした当時は社員3人という小さな会社だった。会社設立当時は佐伯工務店の下請けが多かったものの、5年後には自社の仕事のみで会社経営が成り立っていた。信頼のおける仕事と真心のサービスをもっとうとし、井ノ口市周辺の仕事を増やした。竜次は職人の道に入り若かった頃社長に言われた、『真心』を忘れなかった。

1989年以降バブル崩壊により、銀行の貸し渋り、中小企業は経営破たん、倒産など、同じ土木業者の中にも倒れる会社が後を絶たなかった。しかし、如月工務店は地元を基盤として耐えうるだけの体力と精神力を備えていた。一時期、大幅に売り上げを下げたものの、竜次自ら率先垂範の姿を見せた。苦境の中、竜次は社内の士気を高め不況の嵐を乗り切ったのだった。



社会の中に身を投じた竜次の前には、数々の試練が待ち受けていた。就職先の佐伯公務店は従業員10人程度の小さな会社だった。社長の佐伯重則は従業員の面倒見もよく、「おやじさん」とよばれ慕われていた。竜次と親ほど歳が離れた社員が多く、竜次はその環境に慣れるまで苦しんだ。頑固一徹な職人が集まる職場だけに、叱る前にゲンコツが飛ぶような厳しい上下関係が成り立っていた。

竜次が職に就き、半年が過ぎた。ある程度の専門用語、職人用語が分かるようになった頃だった。その日は、井ノ口市から東に20キロほど離れた美濃加茂市の現場。伊原という先輩従業員と竜次2人で現場へ向かう。仕事内容は新設される公民館の基礎づくり。竜次は、伊原の指示に従い黙々と仕事をこなした。現場は、他の土木業者、鉄骨業者3社共同の仕事だった。佐伯公務店に任された仕事が遅れると、他の業者の仕事にも影響してしまう。その為、伊原もいつも以上にピリピリとしていた。

当時、職人の世界は気が短く、喧嘩っ早い人が特に多かった。一つの仕事に誇りを持ち、頑固を一生貫く人種を職人と呼んだ。一日の仕事も終わりかけたその時に事件は起きた。竜次が工具の片付けをし、会社へ帰る準備をしているると、伊原が不思議そうな表情を浮かべ今日の仕事に目をやる。トラックに残った材料を乗せていた竜次を伊原が呼んだ。

「おい!!竜次!!!」
「はい!」

竜次はとっさに振り向き返事をすると、いつもに無い伊原の表情に胸騒ぎをおぼえた。伊原の方へ駆け足で近
づく。伊原は確かめるように竜次に言った。
「この土台、甘くねえか?」
竜次はわけも分からず、キョトンとした表情で伊原の顔を見つめた。すると伊原は続けて言った。
「セメントの配合確かか?分量確かめてやったか?」
竜次は一枚の紙を伊原に見せ、自信のない声で、
「この配合表見ながら混ぜたので間違いないと思います・・・」
っと言うか言わないかの間に・・・

ばしっ!!!! バシ!! ばし!! ばしシっ!!!・・・・・・・

おっ!おおぉぉぉっ!!

竜次は反射的に大きな奇声をあげた。何が起きたのか分からなかった。とにかく短い間にたくさんのコブシ大の硬くて、痛い衝撃が顔面を襲った事は確かだった。伊原は竜次を無数に殴ったのだ。倒れ込んだ竜次に向かって伊原は怒鳴った!

「おまえ!!!この配合表は外壁の配合表だ!!!土台じゃねーよ!これじゃあ一日の作業が無駄になっちまったじゃね~かぁ!!!どおするんだよ!!!」

竜次は、口の中が切れて血の味が広がり喋れなくなっており、伊原に返せる言葉もなかった。伊原は無言のまま、現場を仕切っている組長へ謝罪に行く。しばらくたって戻ってきた伊原の顔を見ると、目が腫れ、口からは血が出ていた。伊原もまた、組長からこっぴどくヤラれたのだった。それから伊原は市街までトラックを走らせ赤電話(公衆電話)がある場所まで行き、電話で社長に現場であったことを報告した。その間、竜次は今日一日で作った建物の基礎をハンマーで壊していった。伊原が現場に戻ってからセメントを練り直し、始めから仕事をやり直したのだった。竜次は思った。こてんぱんに伊原に殴られ伊原に対し殺意さえ覚えたものの、伊原の仕事をみるとキレイですこぶる早い!いつしか、伊原を尊敬するようになっていた。

すべての仕事をやり終えたのは夜中の2時を回っていた。それから井口市の会社に着いたのは3時近かった。会社に着くと、まだ明りがついている。すると、社長が作業服姿で玄関から出てきた。社長は2人の帰りを家に戻らず待っていたのだ。社長が2人に近づき言った。

「ご苦労さん!大変やったな。えらかったやろうな!」 
※【えらかった】東海地方の方言で疲れたという意味。

「竜次!仕事は真心込めてやらんとな!いいか。この事を忘れるなよ!」

社長は2人の肩を、ポン!ポン!と叩き、それ以上何も言わなかった。社長の言葉が胸に刺さった。今日の悪夢のような一日を思い出していた。出だしは上手くいっているかのように思えた。しかし、6ヶ月働くなかで仕事を覚えたような気になり、竜次の心の隙間に過信があった。つまり、調子にのっていたのだ。そんな自分が情けなかった。自分の仕事で、伊原や社長、現場の業者にも迷惑をかけてしまった。あとで聞いた話しだが、伊原が電話で社長に報告をした際、後輩を守れなかったという理由で厳しく叱咤されたようだ。それだけでなく、社長は現場に入る業者や以来主のところへ行き、頭を下げた。


この時、竜次は誓った。

この悔しさを絶対に忘れない!

そして、『日本一の職人になってやる!!!』と心の中で吼えた!



やがて、春が訪れた。竜次は密かに決意していた。それは中学卒業後、働くということだ。その旨を母、タイに話す時がやってきた。

「おかあちゃん!!」

タイは内職の仕付けをしながら竜次の方に振り向く。竜次がいつにもなく強張った真剣な表情をタイは察して言った。

「竜ちゃんは何も心配しんでもいいんだよ!ありがたい事に内職の仕事もたくさんあるし、あんたは何も考えんでもええでな」
母は子の心を肌で感じ取っていた。タイの言葉に竜次の目からは大粒の熱いものがこみ上げた。あふれるものを手で覆いながら竜次は母の顔を見つめる。竜次が次の言葉を発しようとしたとき、タイは竜次に諭すように言った。

「あんたは高校に行かなあかん!長男なんやし、いっぱい勉強して人様のお役に立てる偉い人になっておくれ!竜ちゃんも知ってのとおり、うちは貧乏農家で家系の中に学のある人、一人もおりゃせん。あんたが勉強して母ちゃんに学んだことを教えておくれ!それが一番の親孝行やに、なっ!」
しばらく竜次は何も言えなかった。朝から晩まで働いて、働いて、それでも微々たる収入しかない中、竜次進学の為にそれ以上母を働かせることになるという現状を考えると、竜次の胸は、ただ苦しかった。それでも勢いをつけるようにして竜次は口を開いた。

「かあちゃん!俺、働くよ!!もし俺が高校行けたとしても、後の弟2人を進学させる事はできん。そんなら、俺が働いて弟2人を必ず高校に行かせるから!俺は勉強嫌いやからちょうどいいやろ!」

タイは竜次の目を見て言った。
「竜ちゃんごめんね!ごめんね!ごめん・・・・・・」

タイは何度も、何度も竜次に詫びた。竜次は何も言わずタイの肩を抱き、なだめた。そして、タイの頬に光るものが見えた。それは、タイが子供の前で始めて見せたものだった。
その後、竜次は井ノ口市内の土木業者、㈲佐伯公務店に就職する。15歳という若さだった。



勘蔵が亡くなってからというもの、如月家に生活苦が襲った。以前から貧しかったとはいうもの、農家であった為、食べ物には困らずなんとか生活できていた。ところが、大黒柱を失い、田畑を維持することができずにいた。タイはなんとか勘蔵が守ってきた田畑を守り抜きたいと思い、朝から夜遅くまで働く毎日だった。竜次も仕事を手伝ってはいたものの、やはり勘蔵の力を埋めることは出来なかったのだ。まだ、竜次や竜次の弟たちは食べ盛りで、タイは子供達の腹をできるだけ満たしてやりたいと必死で働いていた。

勘蔵の四十九日法要がすんだ後、タイは決断する。勘蔵の残した田畑を売ることを決めたのだ。守り抜きたい唯一勘蔵が残してくれた大切な田畑ではあったが、子供たちの腹をすかせた姿を見たとき、タイは辛かった。そして、タイは田畑を売った。しかし、田畑を売ったお金はいつまでもあるはずもなく、タイは着物や洋服の直しを内職で行いながら、細々と生活する日々が続いた。当時、女性が働く場所はほとんどなかった。女性を雇う会社も無ければ、女性が活躍する職種さえなかった時代。その為、タイが家族を支えるには、ただ耐えることしかできなかったのだ。



裕造と竜次は、リアカーの車輪が外れそうな勢いで、アスファルト舗装もされていないでこぼこ道を走った。勘蔵のいる場所へはもう少し。夏の猛暑の中、暑さを感じる暇もなく無心で走った。約10分間全速力で走り続け、やっとたどり着いた。息は切れ、肩で息をしていた。勘蔵の状況はさらに悪くなり、声を掛けても反応がなかった。

「おーい!山里先生をつれてきたぞー!!!」

勘蔵を見てくれていた一人が、町医者の山里先生を呼びにいってくれた。裕造、竜次が着いてまもなく山里先生が到着した。山里先生は勘蔵を診て言った。

「これは心臓発作や!脈もだいぶよわっとる。ここでは処置できんから一分でも早く病院へ連れていかんと・・・」

裕造と竜次は急いで勘蔵をリアカーに乗せ、山里先生の病院へ走った。病院に着いて、薬の投与と点滴を打ち、勘蔵の発作症状は少し治まった。しかし、意識は戻らず危険な状態は続いていた。竜次の母タイが、連絡を聞きつけ汗まみれになりながら病院に駆けつけ病室に入るなり、

「お父さん!!お父さん!!!」

と叫ぶように呼びかけた。しかし反応は無い。それから3日間もの間、意識不明の状態が続き、タイはずっと勘蔵の側を離れなかった。タイは竜次の弟2人にこの事を伝えなかった。まだ、小さい子供に余計な心配をかけたくないという気持ちからだったのだろう。弟たちには、勘蔵とタイは新種の苗を名古屋のまで買いに行ってるから、しばらくは帰らないと竜次から伝えた。タイが病院で勘蔵に付き添う間、竜次は食事や家のこと、弟の世話をした。勘蔵が倒れてから3日後、勘蔵の意識が戻った。言語に難があり、声も聞き取りずらいほどだった。その時初めて、弟たちに勘蔵に起こったことを知らせた。弟たちは近所の人から聞いていたらしく、知っていても知らぬふりをしていたようだ。親に余計な心配をかけまいとして、小さな子供たちもまた思っていた。
竜次が勘蔵の側に行き、

「親父。気分はどうや?」

と声を掛けた。すると、勘蔵は声を振り絞り、切れてしまいそうなか細い声で微笑を浮かべ言った。

「俺はもう長くないようや。お母さんを頼むぞ!」

勘蔵は力ない握力で竜次の手を握りしめた。勘蔵と竜次の手が握られた上には、竜次の涙が何滴も落ちる。弟たちも涙しながら、勘蔵の側へ行き、勘蔵と竜次の手の上から小さな手で覆った。しかし、タイは泣かなかった。3日間の看病の中で、勘蔵の状態を一番よくわかっていたのはタイだった。勘蔵の死を覚悟し、これから家族を自分が守っていくことを悟っていたのだ。これからの事を考えた時、タイは泣きたくても泣くわけにはいかなかった。
それから2日後、勘蔵35歳という若さで永眠す。



岐阜はとても住みやすく良いところだと思う。水はきれいで、山と自然に囲まれた場所だ。父も岐阜に生まれ育った。僕の父、竜次は3人兄弟の長男として、父 勘臓、母 タイの間に生まれる。家は農家を営んでおり、少年時代は、やんちゃ坊主を絵にしたような少年だった。ケンカにあけくれ、365日、竜次の事で親が人に謝らない日が無いというくらいひどかったらしい。小学生4年生の時に、中学生3人対1人でケンカをして勝ったという武勇伝を、父から何百回と聞かされた。僕はちょっと話が大きくなってるなと思っている。

竜次、中学3年生の夏、野菜の収穫時期をむかえ竜次と勘蔵は収穫作業に汗していた。この頃は、一番農家は忙しく、知人などに手伝ってもらい収穫作業を行う。朝5時から畑に出て、二人は手慣れた手つき野菜をちぎり籠に入れていく。昼になり、竜次と勘蔵は夏のひざしを避け、木陰のなかで母タイの作ったでっかい握り飯を頬張っていた。午後からは、地域の人達が手伝いに来てくれるため、ほっと一息という安堵感があった。午後1時頃、5・6人の人達が収穫の手伝いに来てくれた。

「今年の出来はどうかね?うまく出来とる?」

と岐阜弁で声を掛けながらやってきた。

すると勘蔵は、

「今年は嵐もなかったもんで、いい出来やわ!手伝いご苦労様です」

と皆にねぎらいの言葉をかけた。

「それは良かったね~」と笑顔で皆も答えた。


午後からの作業を始めようと、勘蔵が鍬を持ち、木陰から出ようと立ち上がった時、

「うっ!うぅぅ~っ!!」

と勘蔵は苦痛な顔をして膝から腰がくだけ、前のめりになった。

「親父!!親父!!」

と竜次は必死で勘蔵を呼び続けた。しかし、意識が遠くなるように勘蔵は上半身から伏せていく。竜次は周りの人達に勘蔵を見てもらい、近くに住む勘蔵の弟、裕造の家まで泣きながら涙を振り払い走った。、裕造の家に着き、竜次は勘蔵が倒れたことを伝える。すると裕造は、

「分かった!すぐに行くでな!!」

と言い、納屋からリヤカーを引っ張りだし、上に布団を載せて竜次と押し、走った。当時、救急車の台数は少なく、井ノ口市にも2台しか配備されていなかった。その為、10キロ以上も離れたところから救急車はやってくる。道路の整備も進んでいない時代である。救急車が到着するまでに最短で約40分はかかった。そこで、裕造はリアカーで勘蔵を乗せて、近くの病院まで走ろうと考えたのだった。


僕の住んでいる岐阜県は人口210万人、井ノ口市42万人、愛知県と隣接していることから、岐阜と愛知の関わりは強い。岐阜から愛知に通勤、通学する学生、会社員が多くみられる。父の仕事も名古屋の土木工事が全体の5割を占めている。岐阜県民の人柄は、調和を重んじ保守的。あまりホンネを言わない人たちだ。少し考えに偏りがあると思われるが、僕はそう感じている。岐阜県は濃尾平野を中心として山に囲まれた地域だ。産業としてはアパレル(衣服)産業が盛んだ。僕の住んでいる井ノ口市では親戚の誰かはアパレル産業に関わっている。縫製や仕立て、流通など、個人で工業用ミシンを置いて仕事をする人も多い。
伝統産業では、美濃和紙、和紙を使った、和傘、岐阜提灯なども有名で、関市では歴史的に日本刀を作っていたなごりから、刃物の製造が行われている。清流長良川ではアユ漁、鵜飼(鵜という鳥を使いアユなどの川魚を捕らえる手法)などが行われている。解禁日になるとアユ釣りを心待ちにしていた釣り人たちが長い竿をたらして釣りを楽しむ姿がある。

そして、歴史的には信長ゆかりの地として知られている。県名である『岐阜』と名づけたのも信長なのだ。信長は1555年、清洲城(現在の愛知県清洲)を奪い尾張を統一し、1560年、桶狭間の闘いで今川義元を倒し尾張を手中に収めた。1567年には、美濃(現在の岐阜)の斎藤道三を破り、岐阜城を奪った。そこで信長は天下統一の夢を始めて叫んだのだ。岐阜城は井ノ口市のシンボルとなっている。金華山という井ノ口市で一番高い山の上に立てられた珍しい城である。

岐阜県で起こった歴史上、一番有名な出来事といえば『関ヶ原の戦い』(天下分け目の戦い)である。1600年、石田三成率いる西軍8万5000人と、徳川家康率いる東軍10万4000人が、岐阜の関ヶ原(滋賀県と程近い場所)で激突した。その結果、石田三成は大敗し、京都で処刑される。一方、家康は1603年、征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。ここから江戸300年、近代までの歴史へと続くのである。この事から天下分け目の戦いとして知られるようになった。

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